CoMMU column#007

岩淵拓郎「MacとMacユーザー、そしてその先にある風景」

もうずいぶんと昔のことになるが神戸で誰も予想もしていなかった大災害が起きた。阪神大震災。私はそのころ駆け出しの若いフリーターで地元のデパートの食料品売り場でコロッケなんぞ揚げまくっていたが、なぜか大震災から後は縁があってか神戸を第2のホームタウンとしている。震度7の強烈な揺れを直接体験していない自分にとっても、震災はいろんな意味で大きな出来事だった。もちろんそれは多くの被災した人たちにとってもそうであり、それはかれらのその後の人生に何らかの二次的な光や影を落とすことになる。しかしそんな出来事も気がつけば9年も前の昔話となってしまった。

もはやそのころのことを思い出して誰かと酒を酌み交わすことはない。ただ神戸で時間を過ごす中で思うことは、いまもなおこの町にいつづける多くの人たちは確かにあの非現実的な風景を知っていて、その風景こそがわれわれの一つの原風景になっているということだ。愛する人を失った人、復興事業でぼろ儲けした人、あいかわらずうだつの上がらないまま芸術を志している人・・・そんな人々がいまなお共有しているたった一つの記憶はその風景である。逆を言えば、それ以外の記憶は共有し得ないパーソナルな要素であり、復興という時間の中でみごとなまでに個人の物語の中に取り込まれていったのである。

私たちが生きていく上で誰かと共有できるものは本当にささいなものなのかもしれない。そんなことは十分にわかった上で、私たちは今日も誰かと語り合い、与え合い、競い合い、セックスする。それはもしかしたら私たちの共有しうる原風景を探す旅のようなものなのだろう。

そんなことをぼんやりと考えながらMacPowerでの連載をスタートさせ、CoMMUをつくった。Macという絶大な求心力を持った道具の先に私たちはどんな風景を見いだし、そしてそれをどのように共有しうるのか。願わくばその風景が未来につながっていればいいなと思う。


(2003/10/31)

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