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知人の知人が死んで考える「縁がない」ということ

2006年11月20日 | 日々嘉綴 随筆 | del.icio.usに追加 | はてなブックマークに追加 | livedoorクリップに追加

先日、ミナミで美容室を経営しているある女性がお亡くなりになりました。歳は40歳くらい。無愛想だったりワガママだったりでいろいろと面倒くさいタチでしたが、美容師としてはかなり力のある人でした……。

と、さも近しい知人であるかのように書きましたけど、彼女は僕の知り合いの知り合いでしかありません。僕は彼女のことを直接知らないし、たぶん彼女も僕のことを直接は知らなかった。ただ少し気になる話として、彼女は僕のまったく違う接点のない2人の友人の知人でした。僕はまったく違う接点のない2人の友人から偶然にも、告別式の会場となる教会の名前を聞きました。

直接存じ上げない人などで、個人的には正直それほど湿っぽい話にもなりようがないというのが本当のところです。むしろ「縁がない」とはこういうことなんだなとぼんやりと考えたりしました。知り合いを 6人たどれば世界中の人と繋がっているなんて話もあるくらいなので、実は2人どころかもっとたくさんの知人や友人が彼女と接点をもっていた可能性もありそうです。それでも僕と彼女は結局のところ最後まで出会うことはなかったわけだし、まさに「縁がない」という結果に終わったわけです。その理由は、彼女が美容師で、僕が坊主頭だということだけじゃない、もうちょっと運命的な話なのかもしれません。

「縁がない」ということを実感する機会は「縁がある」ということを実感するよりもずいぶんと少ないように思います。そんなことを縁がない人の死から考えた数日でした。

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