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山下残「動物の演劇」
2007年01月13日 | 関西/大阪アートシーン | | |
動物園の猿山で猿たちが鳴き声をやり取りする一連の流れが、典型的な即興演奏のセッションとそっくりという話を聞いたことがある。なるほど、それぞれの猿がいくつかの反応のパターンを持っていてその総体が結果的にひとつの方向に向かうということは理解できるし、その方向がピークを迎えて場がまるで幕が引かれたように終わっていくこともなんとなく想像がいく。だからそれが即興セッションのようだというのはよく分かる話だけれど、さてさて、ここで言うところの即興とは果たして本来的な意味での即興なのだろうか? むしろ演劇的だと言えなくはないだろうか?
ダンサーの山下残が手がける公演『動物の演劇』を見に行った。彼の名前はずいぶん前から聞いていたけれど、実際に彼の舞台を見るのは初めて……といっても、今回彼自身は出演しない。今回彼が手がけるのは構成・演出・振付。出演は岩下徹ほか、音楽に野村誠という豪華メンバー。これで2500円はお得だ。
60分の公演を貫くストーリー的なものはたぶん、ない。あるのは前述のような反応のパターンと連鎖、あと全体のおおまかな流れだけで、あとはたぶん即興のようだった。ダンサーは何かに影響されるカタチである反応を見せ、それを他のダンサーがマネをする、もしくはマネをしない、もしくは正反対のことをする……。そうしたゆるやかなやりとりの中から「振り」らしきものが生まれては消え、いつのまにか舞台は進んでいく。それはコミュニケーションと呼ぶにはあまりにあやふやで、とても見慣れたような風景なので、あまりタイトルに引きずられるのも違うかもしれないけれど、本当に動物たちを見ているような気分になった。
野村誠(ピアノ)と大田智美(アコーディオン)による演奏はそれだけですごかったけれど、彼らとダンサーたちとの関係もとてもスリリングで面白かった。野村誠はこの公演でも原作にあたるの映像作品で見せた動物たちとの関係を保ち切ったように思える。彼は動物ではなく、もちろんダンサーでもなく、まちがいなく音楽家としてそこにいて、彼らと対等に振る舞っているように見えた。対等に、ある時はコミュニケーションとしての音を発し、ある時は背景としての音を発していた。そういう意味でこの舞台は、原作で音楽家としての野村誠がやりたかったことが彼自身のスタンスとしてよりはっきりと示されたことになるかもしれない。
スタンスが示されるという意味では、今回の舞台もダンサー・山下残のダンスに対するスタンスがとてもよく示されていたように思う。他の公演を見たことがないのではっきりとは分からないけれど、特別な意味など何も示されないままただあたりまえに終わってしまったこの舞台が残したものは、山下残のダンスに対するスタンスというか眼差しのようなものでしかないと思う。それは結果論としての浮かび上がってきた「らしさ」とかではなくて、たぶん今回の彼がおこなった構成・演出・振付によって意図的に示されたもののように感じた。うーん、どうしてそんなことができてしまうんだろう。同じくものを創る立場として本当に不思議で、純粋にすごいと思う。
それはさておき文頭の話。ところでこれは実際のところどこまで即興なのか? というか、舞台の上での即興とはいったいなんだろう? 山下残は岩下徹との対談の中で、ダンサーが制約をいかに打ち砕いていくかということに興味があると話している。僕はダンスも演劇も年に数本程度しか見ないので偉そうなことは言えないけれど、結局のところ観客は振り付けされたものであるにせよそうでないにせよ、即興の部分を見ているようにも思う。だとすれば即興は形態ではなくむしろこぼれ落ちる何かで、それは大きく見て「舞台」であったり「演劇」であったりするのかもしれない。帰りの電車の中でひとりそんなことをぐるぐる考えた。
年明け早々、本当にいい舞台をみれて幸せだ。きっと再演もあるだろうから、見逃した人はぜひ見に行ってください。
即興演奏ってどうやるの―CDで聴く!音楽療法のセッション・レシピ集 野村 誠 片岡 祐介 あおぞら音楽社 2004-09-02 by G-Tools |
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